Aloha Knowledge

Vol.4 _ 私のフラストーリー

 08/2020

Written  by  Leila Leihuluonalani Fernandez

執筆 レイラ レイフルオナラニ フェルナンデス

日本語訳 松村 めぐみ

私達フラを踊る者にとってフラは生活そのものといっても過言ではないでしょう。フラが私たちにもたらす毎日の喜びはこの上なく大きなものです。私個人的にはフラ無しの人生など考えることは出来ません。フラによって私には大きな’ohana・家族が与えられました。クムはその家族をリードし親のようにみんなを守る者。Haumana・生徒たちは学ぶ者として年齢にかかわらず家族の一員となり兄弟姉妹のような強いつながりを持ち、生涯の友情を育む。言葉では言い表せないほど素晴らしい関係が育まれていきます。

 

ある時著名なクムフラにあなたはどうしてフラを踊っているのか、なぜクムフラになったのかと聞かれたことがあります。私がどのようにしてフラを踊ることになったのかを話していると彼は、あなたがフラを選んだのではなく、フラがあなたを選んだようですね、とおっしゃいました。 今振り返るとそれは本当だと思えるのです。私がフラをプロとして踊り始めて36年になります。ラインキャプテン、振付師としてハワイで活動し始めてからは30年がたちます。その間、日本をはじめアルゼンチン、台湾など様々なところで踊ってきました。ウニキを受けてクムフラとなったのは11年前です。フラに関わって長い月日が経ちますが、その11秒、すべてを楽しんできました。16歳の頃自分がこの様な人生を歩むことになるだろうとは思っていもいませんでした。

 

私達はそれぞれ様々な理由でフラと関わることになったと思います。友達に誘われて、もしくはハワイが好きで、もしくはフラの美しさに魅せられてなど色々なきっかけがあったと思います。ただ一つ確かなことはどんな理由で始めたにせよ、いったん踊り始めたらフラがもたらしてくれる喜びと、自分の心の中までも表現することの出来るその魅力の虜になるのだと思います。

 

今日は私とフラの出会い、そしてクムになるまでの私のフラストーリーを皆さんにお話ししたいと思います。

 

私が子供のころ母はダニー カレイキニ*補足1 の下、カハラシェラトンホテルでフラダンサーとして働いていました。毎年クリスマスにはアンクルダニーはディナーショーにダンサーの家族を招待してくれたものです。母は本当に美しいダンサーでした。私だけでなく周りの人もよく彼女の美しさを口にしていました。母レスリーはアンティマイキ アイウ*補足2のフラスタジオで個人指導を受けていました。当時多くのクムフラはフラハーラウとは言わずフラスタジオという呼び方をしていました。私が5,6歳だったころ姉と一緒にアンティマイキのレッスンを受けに行きましたが、当時の私は残念ながらフラに全く興味がありませんでした。

母 レスリー フェルナンデス

私が4年生になった時、母はグループのリードダンサーおよび振付師となりスペインのカナリア諸島でフラショーを担当することになりました。私達家族はスペインに移り住み半年以上カナリア諸島で生活をしました。この頃のことは本当に素晴らしい思い出です。姉と私はほぼ毎晩ショーを舞台袖から見ていました。この時期に私はダンサーたちのフラとタヒチアンを自然に覚え、マオリのポイボールダンスも真似をすることで学ぶという時期となったのです。余談となりますが、当時一緒にカナリア諸島にいったオリジナルメンバーの多くは地元の人と結婚し今でもそこで暮らしています。 

カナリア諸島にて。小学校4年生の頃の私

その後ハワイに帰ってきた母は幸運にも70年代、80年代に一世を風靡したLe Boom Boom ClubというインターナショナルマーケットにあるクラブでFollies Polynesia Revueというディナーショーの振付師およびセースルマネジャーの職に就きました。私はほぼ毎日母について練習場を訪れました。その頃から無意識に私は振り付けというものを学んでいったように思います。当時のフラ学校ではフラは目で盗んで学ぶものというのが常識でした、質問をすることも許されず、ひたすら見て学ぶのです。

その時は考えもしなかったことですが、当時から天は私にフラの世界に進むようちゃんと道を整えてくれていたのだと感じないわけにはいきません。

 

しかしながらティーンエージャーの頃の私は、ジャスダンスに没頭する生活を送っていました。高校ではレイディース&ジェントルマンというチームに入り競技大会にも出場しジャズダンス漬けの毎日を送っていました。また当時私はファッション関係の仕事に就くのが夢だったことを思い出します。

 

そんな折私が16歳になった時、母はレスリープロダクションというエンターテイメントプロダクションを設立しました。当時ホノルルの港にから毎晩出航するRella Mae(またの名をWindjammer Cruises*補足3というボートクルーズ内でのディナーショーの契約にも恵まれ、順調な滑り出しでした。ある日、母の仕事終わりにひょっこり顔を出した時の事、メリーモナークでミスアロハの栄冠に輝き、リードダンサーを務めていたダンサーにチームに加わるように言われたのです。チームを構成するため、ちょうど最後のダンサーを探していたのです。フラに興味がなかったとは言え、母と有名な彼女の誘いを断れず突然チームに加わることとなったのです。想像に安く、チームの中で私が一番な下手なダンサーでした。でも幸運にもこのリードダンサーが私にフラとタヒチアンダンスをみっちり指導してくれたのです。

 

そのリードダンサーがチームを引退した後、私が振付師という立場になりました。今まで長年母のもとで見て学んできた事が一気に形となって私の中から溢れ出てきたのでした。最初はもちろん慣れないこともありましたがやればやるほど、上達するのだと実感する毎日でした。本当に継続・経験は何にも勝るトレーニングであると実感しています。

母のプロダクション会社のダンスチームで踊っていたころ。

実は私がこのチームに入れたのにはもう一つ理由がありました。ズバリ見た目です。美しいとかかわいいとかの見た目ではなく、バラエティです。色々な人種のダンサーでチームを構成することによって誰でもどこかに親近感を持って楽しめるショーを目標としていました。

 

その後Rella Maeクルーズ船で数年働き、その後アルハリントン*補足4の下でもダンサーとして踊りました。同時期に母がシェラトンワイキキ、モアナサーフライダー、プリンセスカイウラニホテルでの契約にも恵まれ、またJTB専用のディナーショーも担当させてもらいました。その頃にはすべての振り付けは私が行っていました。多忙でしたがとても充実した時期でした。またワイキキショッピングセンター内にあったVoyageというショーにも出演しており、大人になる階段をフラダンサーとして駆け上がった数年でした。


その後海外公演も多く。ダンサーとして海外で踊るなんてまさに好きなことをしてお金までいただけるという仕事でした。どこの国に行っても素晴らしいおもてなしをしていただきました。ドバイではBurji Al Aran ホテルのオープニングセレモニーで踊り、中東で初となったハードロックカフェやラグビーの国際試合の場でも踊りました。台湾では働いていた海洋水族館でイルカと泳ぐこともあり、どれも素晴らしい思い出です。

モデルとしても働いていたころ。


さて、その後 近年に時を早送りをしますと、ウニキを受けた後はワシントン州のシアトルに在住しそこで現在のハーラウを開設しました。最初はSeattle Hula Productionという名前でフラ教室を始めましたが、その後正式にハーラウとしてHula Halau ‘O Leihuluonalaniを開校しました。それから10年経ちますがこの10年は何にも変え難い最高に充実したものとなりました。天が私にこのハーラウを授けるためにシアトルに送ったのだと感じています。

 

ハーラウを始めてから様々なコンペティションにも参加してきました。勝つ時もあれば負ける時もありますが、勝ち負けがコンペに参加する理由ではありません。大好きなフラを一緒に踊り、ハーラウを代表し、コンペという一つの目標に向かってみんなで進んでいくこと自体が目的なのです。コンペに出るというプロセスはダンサーを飛躍的に次のレベルに進めてくれるものです。練習を重ねることによって生まれる一体感とハーモニーもその喜びの一つです。

 

2018年にはシアトルのハーラウを連れてパリで開かれた国際コンペにも出場してきました。メキシコ、ブルガリア、中国、ウズベキスタンなど世界中のダンスグループと出会うことが出来ました。毎日フランスパンをパリジェンヌのように食べ、私の二人の子供達は、この世で一番おいしいのはフランス料理だといっていますが、私はいつも、それは間違っている、一番おいしいのは日本食よ、訂正しています。:)

私がフラを通して世界中を旅し、様々な人に出会ったように、私もハーラウのダンサーたちにフラを通して多くのことを経験して欲しいと常々思っています。これらはダンサー一人一人にとって生涯の宝となるのです。

去年のサンディエゴのコンペではシアトルとハワイ、二つのハーラウで一緒に出場を果たしました。二つの離れてはいるけれども共に私の愛するハーラウであり一つのチームとして参加できたことはクムとして最高の経験でした。

 

現在私はオアフに住みシアトルとハワイを行ったり来たりしています。美しいハワイで生活をしながらシアトルに素晴らしいハーラウも持てていることに感謝が尽きません。

 

私の経歴を駆け足で紹介しましたが、皆さんに少しでも私のことを知っていただき近づけることが出来たならば幸いです。今年の1月に日本で皆さんにお会いできたことは本当にうれしいことでした。皆さんお一人お一人との出会いを心より感謝しています。どの先生方も皆さん素晴らしい方々でした。皆さんのお教室の生徒の方々にまでAlohaをお送りしたいと思います。

また近々お会いできますことを祈って。God Bless you and Malama Pono.

 

Kumu Leila

2020August

*1:ダニ-・カレイキニDanny Kaleikini 

ハワイのアロハ大使。ダニーは27年間、カハラヒルトンでのハワイアンのショーを続けたエンターテイナー。スムースなボーカルとムーディなサウンドを売りに、この時代のワイキキのホテルショーのひとつのスタイルを作りあげました。いわゆるハパハオレ・ハワイアンは少なく、タヒチの音楽を盛り込むなど、意欲的なステージ構成で知られる。

 

*2:マイキ・アイウ・レイク (Maiki Aiu Lake):一般的にはアンティー マイキと呼ばれ「フラの母」「ハワイアンルネッサンスの母」とも呼ばれています。

*3 : Rella Mae(またの名をWindjammer Cruises)長い歴史を持つホノルルのクルーズライン。

*4 :アルハリントン  Al Harrinton  

アメリカの1968年から続く著名なテレビドラマHawaii Five-0の初代出演俳優。1980年代にはヒルトンハワイアンビレッジでポリネシアンショーを長く開催し、当時の観光名所となった。今日あるハワイアンエンターテイメントの開拓者といわれている。